――まず企画がスタートした経緯について聞かせていただけますか?
|
|
エグゼクティブ・プロデューサー渡辺 繁 |
『スチームボーイ』は、まず他社さんが大友さんと企画をスタートさせていましたが、様々な事情でこう着状態になっていたんです。1996年の秋、僕がたまたま『MEMORIES』のキャンペーンで大友さんと2人でフィンランドとイタリアに行き、「進めたいんだけど進まなくて困っている」という話を聞きました。その時「自分にできることがあったらやります」と話したんです。それからしばらくして、大友さんが『スチームボーイ』の権利を自分で買い戻され、僕のところへ持ちかけてこられたので、お引き受けしました。それが始まりで、96年の12月です。
――それからストーリーが最終的にまとまるまで、どのくらいかかりましたか?
骨格は大友さんと村井さだゆきさんが脚本という形でまとめましたが、最終的には大友さんがコンテを長い時間かけて作りました。それが4年前くらいで、そのコンテが最終決定稿のような感じになりました。
――では、その4年前までは脚本ができていなかったんですね?
そうです。その前はハリウッドと合作でという話を進めていましたから、その段階で、向こうの話も聞きながら、それに沿って脚色できるかということを議論していましたからね。
――ハリウッドとの合作というと具体的にはどちらと?
ジェームズ・キャメロンとやろうと話していたんですよ。ですが、キャメロンがプロデューサーになると、立場上、監督である大友さんに指示を出さなくてはいけなくなります。キャメロンには、「尊敬する大友さんに指図することなんてできない」ということで断られました。その後、成立に向けてメジャースタジオを一通りまわりましたが、大友さんの作家性を活かしながら作るには、やはり日本で存分な環境を整えるのが一番ということに落ち着いたんです。それが決まったのが99年の年末頃で、それまでは本当に決まりませんでしたね。
――ハリウッドで製作することについて、大友さんはどのように思われていたのでしょうか?
大友さんには、当時も今も、ハリウッドから誘いがきています。『AKIRA』の実写化なんて話もありますし。でも、いろいろと見てまわるうちに、向こうの限界みたいなものを感じてしまったようですね。ハリウッドでアニメを作ると90分の時間枠にはめた映画になるし、前例となるヒットがなければ、なかなか製作のGOサインが出ないんですよ。ベストセラーの「ハリー・ポッター」とか、『スパイダーマン2』みたいな続編はすぐGOサインが出ますけどね。
――大友さんとはどれくらいのお付き合いなのでしょうか?
85年から86年に、大友さんの「童夢」という作品をバンダイがハリウッドと実写化するという話がありました。結局、世には出ませんでしたが、ルーカスフィルムの人がプロデュースするという話でした。会社としてのお付き合いはそこからだと思います。そして、同時期に『AKIRA』のアニメ化が進んでいて、僕もそこに加わりましたが、翌87年に公開した『王立宇宙軍』というガイナックス(『新世紀エヴァンゲリオン』を生み出したスタジオ)の劇場映画にエネルギーを使ってしまい、半年間以上、会社を休んでしまいました。そういうことで、途中で降りてしまいましたが、大友さんの作品に直接関ったのは『AKIRA』からということになりますね。これが86年頃ですから、もう18年くらいになるんですかね。 |